▼城端善徳寺の系譜
▼砂子坂道場
はじめに
今から10年前、平成10年に、蓮如上人の五百回忌を迎えた。
北陸は加賀一向一揆に代表されるように、真宗と関わりの深い地域で、蓮如上人も布教のため北陸を巡行した。
その蓮如開基を伝える寺院に、富山県南砺市(城端町)の城端別院善徳寺がある。
善徳寺は、真宗大谷派(東本願寺)の別格別院である。

この善徳寺は、永禄2年(1559)城端に伽藍を定め、天正13年(1585)に豊臣秀吉と講和するまで、瑞泉寺、勝興寺と並び、越中の一向一揆の拠点寺院として活躍した。
特に善徳寺空勝は、本願寺を強力に支え、門徒を率いて各地を転戦した。
このように一向一揆の中心寺院であったにもかかわらず、この寺院の伽藍は戦国時代の戦災を受けず、建て替えはあったにせよ、その一部の建物が現在まで残存する唯一の寺院なのではないだろうか。
しかもかつては城郭であったという伝承を持つ、城郭寺院あることは極めて著名である。

私は城端の善徳寺を幾度となく訪れる。
その回数を数えたことはないが、指の数を越えているのは明らかだ。
特に、7月の22日から28日には虫干し法会が営まれる。
善徳寺には、古文書一万点、什器千点の宝物があり、このうち約三百点が寺院いっぱいに展示される。
善徳寺には、前田利家が加藤清正から譲り受けたという伝承を持つ宝物など、朝鮮の役で戦利品として半島から渡来した遺物もあるようで、たとえば、庭にある水鉢は朝鮮伝来という。
また、ここの賄いで出される鯖寿司は有名である。
このときは、寺は人でいっぱいになる。そしてまた、このとき寺は開祖蓮如上人一色となって、時間が一気に数百年遡る。座してしておられた古老に伺うと、この寺の本堂は、建替えれたが昔のままの位置にあるという。
蓮如が揮毫したという、「南無阿弥陀仏」の六字名号の前で、毅然として解説するその姿に、善徳寺の歴史の重みを感じた。
善徳寺を中心とする城端の町は、門前町特有の風土があったが、今、善徳寺門前は変わろうとしている。
<かつての門前風景>
国道三〇四号線の道路の拡張工事が進み、江戸時代の町並みと門前町の風格は消えようとしている。

<現在の風景>
本稿は、近世から現代に生まれ変わろうとしている城端の町を眺め、善徳寺の歴史を振り返り、限りなく中世に迫ろうと思う。
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城端善徳寺の系譜
城端善徳寺が創建されたのは、文明年間、富山県(福光町)と石川県(金沢市)の県境、砂子坂道場跡であった。
善徳寺の故地は、三軒茶屋から県境を越えて砂子坂に至る街道の約百メートル南方に、堂屋敷と呼ばれる平坦面があり、善徳寺跡を示す石柱が建つ。

この砂子坂道場は、現在は訪れる人もないが、北陸の真宗の歴史を考えるときは極めて貴重な遺跡であろうと思う。
砂子坂は、福光町法林寺にある光徳寺の、黄金の阿弥陀如来像を蓮如自ら鋳造したという、タタラ場として著名である。
タタラ場には、かつて光徳寺があり、この跡は「牛馬牧せざる」聖地であった。
砂子坂は周囲を土塁で囲み、複合した坊院の平坦面が入り組む大規模な山岳寺院遺跡で、大きな宗教都市を形成していた。
この頃の砂子坂道場の性格は、不明な点が多い。

蓮如が布教する以前は、白山から石動山に連なる天台や真言の、山岳密教系の宗教集団がここに寺院を構えていたと思われる。

北陸に真宗が布教され、真宗門徒が増加していく中で、瑞泉寺二世如乗によって二俣に本泉寺が創建されたように、ある一時期、真宗を取り巻く情勢が不穏なため、加越国境に待避した時期があったようである。
これは、石川考古学研究会会員によって確認された、二俣から平尾に移転した本泉寺の遺跡が、堅固な城塞と空前の規模を誇る山岳寺院であることからも裏付けられた。
文明3年(1471)、蓮如が吉崎御坊に布教の拠点を置くと、ここに多数の門徒がつめかけた。
吉崎には多屋と呼ばれる家屋が建ち、周囲を土塁で囲んだ寺内町を形成した。諸事の評定は、多屋衆がその運営にあたった。
そして加賀や越中の拠点寺院の布教が伸びると、ますます真宗門徒が多くなった。
応仁元年(1467)五月、京都で応仁の乱が勃発した。
細川勝元(東軍)に対して、山名持豊、畠山義就、斯波義廉ら西軍が挙兵、日本は戦国時代に突入した。
文明に入ると加賀では、守護富樫政親は東軍に組みしていたが、北加賀の富樫一党が弟幸千代を擁して西軍に加わり謀反を起こし争乱状態となった。
このとき、大きな勢力となっていた本願寺門徒は富樫政親に組みし、幸千代には、高田専修寺門徒が同心したが、この争いは本願寺門徒の勝利に終わった。蓮如は越前吉崎にあったが、このような事態は蓮如の本意ではなく、やむなく蓮如は翌年ここを去った。
長亨2年(1488)加賀守護、富樫政親が一向一揆によって滅んだとき、蓮如は一揆を「悪行」として破門を示唆した。
すでにこのとき、北陸の一向一揆は、守護をも倒す強大な力となっていた。
このような本願寺の勢力伸張によって、加賀越前に権勢を誇った白山諸寺もその多くは退転していったと考えられる。
白山宮には年貢が届かず、『講中録』には、「本願寺の威勢にほこり、寺社の領地諸免田年貢沙汰無し、神事並勤行退転に及ぶ。
先代未聞言語道断之次第なり。随て武家の威勢も無きが如し」とある。
蓮如は、文明七年七月、蓮如は瑞泉寺に下向した。その際、砂子坂を訪れた。
善徳寺寺伝によれば、「蓮如上人は、本願寺五世、善徳寺開基綽如上人の三男、周覚の故地である草庵を訪れたさい、有縁の勝地であるとお喜びになり一宇を建立され、周覚の孫蓮真に付属されたのが、善徳寺の始まり」であるという。善徳寺は、蓮如を第一世としている。
善徳寺の系譜を紹介すると、善徳寺第二世蓮真は、本願寺五世、瑞泉寺開基綽如から数えて三世目にあたる。
蓮真は、越前石田西光寺で生まれ、砂子坂から法林寺を経て山本に移り、才川の松寺で没したという。
善徳寺は、文亀年中(1501〜1504)に法林寺に移転し、その後善徳寺は大永2年(1522)法林寺から福光町山本に移転した。
善徳寺の寺号は、砂子坂から法林寺に移転したさい得たものである。
法林寺の善徳寺の故地は明らかでない。
福光町山本の善徳寺故地は、教念寺の東側の山際で、現在、善徳寺跡地の案内板が建つ。
『城端町史』には、実円は、蓮真の第三子で、大永七年に山本で没し、その墳墓があるという。
教念寺は、歴代住職が善徳寺第三世住職実円の廟を守護して道場を勤めたといい、明治13年(1880)に、教念寺と公称するようになったという。
善徳寺には支院が二つあり、その一つが福光支院である。
福光町五宝町にある、知源寺がその地で、善徳寺掛所という。
ここは、天文2年(1522)、善徳寺四世円勝が、山本より福光に寺院を移したところである。
その後、第五世祐勝が、永禄2年(1559)、ここより城ヶ端城主荒木大膳の要請により福光村より移住し、城地に寺院を構えた。
これが現在の善徳寺である。
文明10年(1478)、蓮如は山科に本願寺を造営するが、この年2月、福光にあった石黒光義が、医王山惣海寺衆徒を併せ1600と共に、一向一揆の拠点瑞泉寺を攻撃した。
しかし、越中から参集した5千もの一向一揆に田屋河原の合戦で破れ、石黒氏は滅び惣海寺も焼亡する。
このとき、川上衆も瑞泉寺側として参陣した。
川上とは、小矢部川上流域の福光、城端あたりを差し、河上十郷とも称した。
川上衆は、文明7年7月、蓮如が瑞泉寺に下向したさいその先導を勤め、天文13年(1544)10月からは、本願寺に勤番している。
永正3年(1506)7月、加賀や越中の一向一揆は越前に攻め入るが破れる。
しかし同年9月、越後長尾能景は一向一揆討伐のため越中に出陣したが、蓮沼で敗死した。
蓮如の子実如は、越中門徒に、城を構えて国を保つよう伝達しているが、善徳寺が砂子坂から下りてくるのはこの頃である。
同様に、山を下りた真宗寺院がある。それが勝興寺である。
勝興寺は文明年間、蓮如の叔父如乗によって、富山県福光町土山に創建された寺院で、本願寺実如が「北国之本寺ト御定諸式御本寺同格」としている瑞泉寺と並ぶ、越中屈指の真宗寺院である。真宗寺院の多くは、この頃から城郭に変身していったと考えられる。
勝興寺は創建されて以来、土山、高木場(福光町高窪)、安養寺(小矢部市末友)、そして国府と四回移転したことが知られている。
砂子谷の高木場に、勝興寺が移転したのが明応3年(1494)といわれ、永正16年(1519)、末友に移転し、これを安養寺御坊と称した。
真宗寺院は山から平野に下るが、そこは交通の要衝であった。これは、寺院が経済活動と密接に関連し始めた兆候とも言える。真宗寺院のこのような動きは、砺波郡での武家支配が終焉し、真宗寺院に替わったことを示している。
また真宗の伸張により、越中では医王山から八乙女山にかけての天台系の諸寺が没落したのもこの頃であると思われる。
では、城端への善徳寺移転はどのような背景があったのだろうか。
城端城主であった荒木大膳は、川上衆を構成する有力土豪であったと思われる。
荒木大膳は、荒木膳太夫または、六兵衛ともいい、『故虚考』に天正5年(1577)、前田利家に仕え千石を拝領したというが、天正5年は怪しい。そして、天正18年(1590)、武蔵国八王子城で戦死したという。荒木家の記録によれば、荒木膳太夫は、荒木大膳の子にして、永禄2年まで、代々砺波の領主として今の城端城にあったという。
永禄二年から天正18年までは、31年あり、代替わりしたというこの記述は納得できる。
だが、力関係から見れば、荒木大膳は、砺波郡を実行支配していた瑞泉寺の配下にあたる。
そこに一家衆である善徳寺を城の一角に招致したのは、荒木大膳の意志ではなく、瑞泉寺が善徳寺に、五箇山河上衆を率いさせるために画策したと考えるほうが自然であろう。
『善徳寺由緒略書』によれば、第六世、空勝は、加賀・能登・越中の組と申し合わせ、大坂石山本願寺に兵糧弾薬を輸送したということからも、それが裏付けられた。
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