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▼善徳寺寺内町の起源
▼城端城
城端寺内町の検討

善徳寺寺内町の起源

寺内町であるという城端の町並みは、いつ頃現在のような形で整備されたのだろうか。

『城端町史』によれば、城端の町は、善徳寺の門前町として開かれたことは明白としているが、これは城端の町並みを考えると当然だろう。

それは、善徳寺は城端の町並みを形成する山田川が支流である、池川と合流する河川台地に位置していて、大門の西側から参道が東に延びる。寺の住持によれば、善徳寺は、元は城であったという言い伝えがあるという。しかし善徳寺を城端城とするのは問題がある。

城端城跡は江戸時代までその残痕が残っていた。

道路拡張に伴う、善徳寺前での発掘調査の現地説明会が、平成8年(1996)5月26日、城端町教育委員会の主催で行われた。

その遺構を実見したが、善徳寺周辺では城郭の遺構は確認できず、むしろ江戸初期の町屋と思われる井戸や柱穴の遺構が確認できた。

遺物も、焼きものは16世紀後半(1500年代)から17世紀(1600年代)の江戸時代のものが多く出土した。

このことからも善徳寺の周辺が開発されたのは、江戸時代からで、中世には未開であり、善徳寺城郭説には疑問が生じていた。

城郭は、周囲の地勢より高い所に築くかれるのが原理原則であり、三州誌を著した江戸時代の学者、富田景周も、善徳寺を城端城とは見ていない。城端の町並みで最も比高があるのは、織物福祉会館の土地であって善徳寺ではない。

善徳寺より織物福祉会館が、約4メートルばかり高いが、周囲を歩くとこの一帯だけが一段高い、基壇状の地勢が伺える。

そして善徳寺の南側には、幅数メートルの土塁の痕跡が残る。

城端の町並みは、町を東西に分ける参道の北側と南側では、南北に貫通する町筋が食い違う。

これは、町並みができた時代が異なることによるものであろう。

城端の町筋で最初にできたのは、善徳寺の参道とも言える上町である。

『城端町史』は、城端には善徳寺の門前に市が立ったが、その起源は、由緒書から推定すると天正元年に遡るのではないかとする。

当時、井ノ口には十日の市、山田には四日の市があり、これを城端に持ち寄ったのだという。

これを六斎市と称した。

元禄6年(1693)に、城端町の各町内毎に『組中人々手前品々覚書帳』が記録されている。

これによると、天正元年(1573)には、十五軒が城端に移住しており、そのほとんどが砺波郡からの移住で、上町、下町に居住していた。

最も早くから居住していたのは、天文22年(1553)遊部村から移住した、東下町紺屋新左衛門であった。
寺院の門前には市場ができる。天正13年(1585)に、前田利長が、城端より北東の北野での楽市楽座に制札を与えている。

北野には、天正9年(1581)に井波瑞泉寺がこの地に逃れ、慶長元年(1596)に井波に帰還するまで堂を構えた。
井波の町は、この北野の市を吸収する形で慶長9年(1604)に下町に新しい市ができた。

この市は、毎月七日の日に市を立てた。城端の町は、その後新町や大工町ができ、現在の町の形が作られて行った。


野・瑞泉寺址


城端の段丘

城端町立地する台地は、南北に長く東西に短い。立地条件の悪い東西に、わざと道を付けた理由は、寺院の方向性に関連する。

古来より、寺院は南向きが原則であった。

しかし、一向宗寺院の信仰の中心は、西方浄土の阿弥陀如来であったので、蓮如が建立した山科本願寺は、御影堂と阿弥陀堂、大門をあわせて東向きとし、これ以後の、真宗の代表的寺院はこの伽藍配置を踏襲している。

 この町並みを観察して、善徳寺は伽藍を東に向けて建立され、城端城内の北の出入り口と交差する形で東西の町筋が設けられ、これが城端の町の原型を型どったのではないのかとの疑問を持った。

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城端寺内町の検討
城端は、善徳寺の寺内町と呼ばれる。

戦国後期に一向宗寺院は、寺内町と呼ばれる町並みを築いた。

寺内町は寺院を中心に築かれ、寺内特権と呼ばれる特権を獲得し経済的に繁栄したといわれ、浄土の教義を実現しようとした宗教都市であった。

代表的な事例として、久宝寺、今井、富田林がある。

これらの寺内町が出現したのは永禄年間の頃からで、ほぼ同時期に建立された城端善徳寺も、寺内町であるという。

天正元年(1573)には六斎市が開かれ、ここには善徳寺の坊官や門徒が町屋を連ねていたことは想像に難くない。

この善徳寺寺内町と、現在の城端の町並みを考察するため、これらの関西の寺内町と比較検討する

今井寺内町

今井寺内町は、奈良県橿原市にあり、称念寺を中核とする宗教自治都市であった。

現在今井町は、江戸時代の民家建築が残存していることでも著名である。中世の今井は興福寺の荘園としてその支配下にあった。

やがて室町時代に入り荘園精度が崩れると、大和の国には豪族が割拠し始め、やがて村々が自衛する環濠集落が出現した。

その頃、一向宗が大和に広まり、旧勢力である興福寺と争いが起き、天文元年(1532)、一向門徒が一揆を起こして興福寺を焼き討ちし、その報復として興福寺が一向一揆拠点を攻め、今井もこのとき焼き討ちされたという。

「今井焼き」から数年後、本願寺は一門の、兵部卿豊寿を今井に送り、新しい町造りと道場の建設が始まった。

これが今井寺内町の始まりで、建設された今井寺内町は四町四方で、東西五本、南北六本の碁盤状の町筋を通し、その升目一つを寺院とした。そして寺内町の周囲に、幅三間の濠と土塁を巡らした。現在もその痕跡が西の春日神社に見られる。江戸時代に描かれた今井寺内町の古図には、その中心となる称念寺が描かれている。

山門は北向きだが、称念寺の本堂は、東向きに描かれている。


今井寺内町古図

富田林寺内町

富田林寺内町は大阪府富田林市にあって、興正寺別院を中核とする宗教自治都市として今井寺内町とともに著名である。

富田林寺内町は、永禄元年(1588)頃、証秀上人によって開かれた。

当時、証秀上人は富田の地を銭百貫文で買い取った。そして、近在の中野・新堂・毛人谷・山田中の四ヵ村の庄屋株二人づつ八名の八人衆に、興正寺の建立と六筋七町の寺内町の建設を依頼した。

この町は約四町四方で、今井町同様、碁盤状に東西南北に道路を通し、その一つの升目を寺院とした。

楕円形の台地上に築かれ、南北の通りを筋といい、東西の通りを町と称した。現在寺内町の中心には、今井町と同様に江戸時代の民家建築が残されて、町並み保全の整備が進んでいる。

興正寺の、伏見城の城門であったという山門と本堂は、いずれも東向きである。


富田林寺内町

久宝寺寺内町

久宝寺寺内町は、蓮如が文明二年(1470)この地を布教し、明応年間(1492〜1500)に西証寺が建立されたが、血族が絶えたため大津顕証寺より住職を招いて近松顕証寺としたのが久宝寺御坊である。

古図によると、今井や富田林同様、碁盤状の道路が東西南北に走り、周囲を土塁と濠で囲み、東口と南口は馬出状となり、二重の門が構えられた。

顕証寺は久宝寺寺内の中心の南側にあり、周囲より一段高い基壇が認められる。

久宝寺には、親鸞上人の弟子、信願坊法心の創建した慈願寺があったといわれ、顕証寺がその故地を継承したものと思われる。

顕証寺の伽藍配置は、山門と本堂は東向きである。



久宝寺寺内町

これらの真宗寺院の寺内町は、中核となる真宗寺院が、ここに理想の宗教都市を実現しようと建設したもので、立地条件、寺院の伽藍配置や、碁盤状の町筋、区画の大きさ等、共通する事項が多い。

その特徴は、第一番に、寺院の本堂の伽藍配置は東向きであることに尽きよう。
この伽藍配置の特徴が、現在の城端の町並みを決定している。

町は、東西南北に碁盤の目のように道路を付け、中核となる寺院は町の中心もしくは東よりに本堂を構えた。
寺内町の大きさは、今井町、富田林が四町(400メートル)四方で、寺院には、碁盤の升目の一つが宛われた。寺院の門前には参道が無いのも特徴の一つで、城端善徳寺と決定的に異なる点である。

寺院に住持する僧や奉公人、それに商人や職人が宛われた区画に居住し町屋ができるが、戦火を避けるため、また自ら武装したため、町屋の周囲に土塁を築き、城郭都市を形成している。

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