真宗大谷派事務所が発行した『歩いてみよう蓮如みち』には、五箇山の上平村赤尾の行徳寺を開いた道宗の言葉が綴られている。

「一日のたしなみは、あさつとめにかかさじとたしなめ。
一月のたしなみは、ちかきところ、御開山様の御座候うところへまいるべし。
一年のたしなみは、御本寺へまいるべしとたしなむべし」

この言葉に代表されるように、真宗門徒は、蓮如の教義を忠実に修得と努めた。

したがって、蓮如の門弟達が築いた真宗寺院は、御本寺である本願寺と同様の形態を保有していたと考えられる。

城端善徳寺の初期の伽藍配置は、本願寺の伽藍配置を踏襲しており、永禄年間に城端に善徳寺が移ってから、現在の位置でほぼ間違いないと考えられる。

善徳寺は、本堂の立て替えはあるが、建立されて以来、一度も移動していないし焼けてもいないとされている。

今の善徳寺は、前田利長から「ぜんとく寺やしき」が安堵される以前から、東向きの伽藍が建立されたものと思われる。
この「ぜんとく寺やしき」は、明治の初め、地租改正時作成された地積図によって、知ることができる。
これによると、現在の善徳寺境内には、地番の無い官有地と四〇一番から四〇六番の地番で構成されている。

この中でも注目しなければならないのは、善徳寺官有地で、ここは現在は四〇五番という地番であるが、明治の初めには地番が無い。

慶長9年(1604年)、前田利長は善徳寺で二泊した。
その際、前田利長は、善徳寺の屋敷地を免租した。
その寺地は、九反六十二歩、草高十三石七斗六升七合であったが、官有地とされる地番と合致するものと考えられる。とすれば、前田利長によって免租された、慶長九年年当時の善徳寺の寺域を表しているともいえる。

更に、地番四〇六は善徳寺大門前では狭い幅で、長屋門付近では広い幅で描かれており、これは、現在の善徳寺の前を流れる川が、かつてはここが谷となっていたのを埋めて、後に四〇六番という地番と付けたもので、善徳寺の地域が拡張されたことを表している。

現在の庫裏の台所がこれがやや北に傾いているのは、ここが地盛りされて地盤が弱かったことを示している。
これらから、慶長期以前の善徳寺を復元することが可能となった。

中世の善徳寺の寺域は、現在の本堂から北になだらかに下降し、東側には川が峡谷を形成し、そこに舌状台地が生まれていた。
この台地を、寛保年中に「山ヲウカチ谷ヲウメ地面引ナラシ」て地ならしを行って、現在の寺域を築いたことが知られてる。

本堂は、ほぼ現在の位置にあったものと考えられる。その、本堂の南側には土塁の痕跡が明瞭に残る。

この、寺の北側に残る土塁は、先に述べた勝興寺や高田専修寺、あるいは土塁が現存する井波の瑞泉寺の事例から、寛保年中に改修される以前の、善徳寺の土塁である可能性が高い。

それは、中世の大寺院は一般的に大門の左右に、あるいは周囲に大きな土塁を築いた。

この空堀・土塁は、寺域の境界を定めるためのものと、寺院は神聖な結界地を示す理由から生じたものであると考えられる。

戦国期の善徳寺はどのような構造形態だったのだろうか。その参考事例である真宗寺院の事例を観察してみた。

勝興寺は、永正16年(1519)、に末友に安養寺御坊と称する寺院を建立した。

安養寺御坊は、小矢部川の支流、渋江川の下流にあって、越中から加賀に抜ける、交通の要衝に位置する。
安養寺御坊は、中心の寺院は周囲を土塁と堀で囲まれた、一辺が200メートル余りの方形を呈し、西側に本堂があったという。

勝興寺は、寺院と町屋の二郭からなり、町屋の外側には、総構えがあったとされている。
安養寺御坊の中央を御堂屋敷と呼び、東側を寺町と呼んだという。勝興寺を中心とする町割りがあったようで、寺内町が形成されていた。

残存する土塁や地籍図から、総構えは横矢が掛かっていた。

現在でも、遺跡の西から東に道路が延びるが、そこを「大門」と称し、道路がそれより遺跡側に一段高く傾斜しているのがはっきりわかる。

先に述べた三重県津市一身田、高田専修寺の事例では、専修寺は、環濠を巡らした寺内町として著名である。

専修寺は、文明年間この地に創建されたとされ、高田専修寺派は、親鸞を祖とするが、本願寺派とは相対していた。

一身田の遺構は、環濠の跡が溝となって旧寺内町の周囲を囲む。

元禄13年(1700)の古図では、濠に沿って幅一間から三間の土塁と同程度の堀切に囲まれていた。

その土塁の遺構は、現在の専修寺の西側に一部残存するが、それを復元すれば、この寺院の総構えは町屋を包み込む、一辺が三百から四百メートル余りの巨大な寺院であった。

以上の事例は特異な事例ではない。

たとえば、加賀三ヶ寺の一つ山田光教寺の伽藍配置も、前面に大きな土塁を配置し、その構造は城郭そのものであった。

戦国期に築かれた真宗寺院の多くは、別名城郭寺院とも称されている。そしてまた寺内町も形成されていた。

当然、善徳寺も周囲を土塁で囲む構造であったと推定され、先に検討した伽藍配置と真宗寺院の事例から、南から東に土塁を設けた東向きの伽藍配置の寺院が浮かび上がってきた。

ところが、初期善徳寺の描く軸線と、城端町の町割りの筋の角度がずれているのである。

現在の城端の町割りは、どうも善徳寺の普請と同時期に、併せて行われた疑いを抱いた。

善徳寺は荒木大膳の城地を寄進した、城端城の故地であるというのは、聞き取りした城端町民に一致した見方であった。



城端の町並みを巡ると、今の大工町に、周囲より一段高い方形の基壇が確認できる。また、上の写真のように、あたかも城郭を連想させる石垣も見られる。ここは明治初期の地籍図には「字東」と記されているところである。北は「字東上町」、国道をはさんで西は、「字大工町」で字東の南は「字新町」であった。

それでは、善徳寺の南側には何があったのだろうか。


左は周囲より一団高い、織物会館前の駐車場敷地の写真です。城端城(荒木館)の主郭である疑いが強い。

富田景周が実見し、寛政13年(1801)までに編纂した『故虚考』によれば、城跡は、城端町の南にあり、今はその跡がよくわからないという。
だが、天保年間、石黒信由によって『三州測量図籍』にはその記録がある。

景周は、城端城を善徳寺とはしていない。
城端入り口を出丸として、後ろは、山際より野に接して所々に断切があるという。
福光と井波からの街道は出丸町との南で合流し、ここより下町となり東西二筋の方形の町筋を通過して、上町の善徳寺の参道に至る。

東西の町筋の中間から、五箇山に抜ける町筋が始まる。

曳き山会館から南を大工町と呼ぶ。この町筋は、百メートルばかり進んで道はクランクし、南に進んで、坂本クリーニング店から南が新町となる。

大工町というのは、城端大工が、前田利長より文禄3年(1594)屋敷地を拝領したことに始まる。

当時十人であった大工は、元禄6年(1693)には、14人となったという。井波にも大工が屋敷地を拝領しているが、これらは加賀藩によって政策的に実施されたのであろう。

城跡と推定するのは、織物福祉会館から東の段丘を巡り、宗林寺に至り、上町を曳山会館の北側を巡って、東側の土蔵を南側に上り、大工町の国道のクランクに出て最初の織物会館に至るラインである。

ここの建設現場を実見したところ、堀残しの土の断面が異なる地層が現れている。ここには、大正年間まで空堀があったとのことであった。



また、ここから南のクランクは、この折れ構造が、中世城郭の虎口を連想する。城端城は織物福祉会館を中心として築かれ、このクランクが南のラインに位置し、城端城の虎口ではないかと推測した。

しかし、このようなクランク構造は、たとえば、黒部市生地町や入善町舟見町のように、江戸期の町筋に見られる。

このクランクを木戸と解釈したり、あるいは、町の奥行きを深める意図的構造と解釈できるが、これは、近世の町屋の拡張のゆがみともいえる、町割りの構造によるものであろう。

このクランクが生じた理由を、図のように考えることもできる。

当初、城端の町は、曳山会館や織物福祉会館を中心とした町屋があり、元々は直線的な街道が貫通していた。

ところが、町が拡張するにつれ、このクランクから東側では、間口が狭く奥行きが長い商家が建たないので、ここをクランクとするように道筋を変更して商家を建てたのではないだろうか。

しかし上町下町と違い、大工町は、慶長三年(一五九八)までは、加賀前田氏が領有していたことから考えて、ここは空地であったので、荒木大膳の居城があったと考えても矛盾はない。

以上の検討から、中世から近世にかけての城端町が復元されてきた。このプロセスを図に示した。

当初は、井波からの街道が、北野から河岸段丘を登って出丸を過ぎ、真っ直ぐ城端城に達していた。

南から北のこの軸線上に、当初の城端城の城下の町屋があった。



そこに善徳寺が招致され、そこに至る筋が西に取り付けられて現在の東西の軸線が出来た。

そして、天正元年にはここに市を集めて城端の町の基盤が誕生した。

城端が、一向一揆から前田氏の領有するところとなると、城割が実行され城端城が廃された。

そしてその跡地が開発され、大工町が誕生し今の街道が貫通した。

これらから、今井や富田林のような碁盤状に整然と区画された町並みの寺内町とは、城端の寺内町は町並みが異なるのである。在の城端の町の升目は、江戸時代初期の町造りの際に区画されたもので、善徳寺と直接的には関連しないと考えられる。

中世の善徳寺寺域は、下図のように北に真っ直ぐであったが、善徳寺の伽藍は、正面の軸線がやや南によって建てられていた。

敷地と伽藍の方向性は合致していなかった。

そして、敷地の方向と道筋が合致するのが、城端曳山会館の西側の路地である。

これに対して、町筋は東に傾いて南北に直線的であるが、これは、城端の町が立脚する台地に併せて計画的にラインが引かれたものと考えられる。

したがって、上町下町が誕生し、町筋が南北に日本整然と整備されたのは江戸初期で、この軸線に合わせて善徳寺の境内も整備されていった。これは、善徳寺門前の発掘調査の結果とも合致する。

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